かつてコミュニケーションは不要だった?
就職や社会生活にコミュニケーションが重要であるという傾向は、様々な「自由」とともにより強く意識されるようになりました、
近代になり、人間が身分制社会から解放されるにつれて、私たちの生活は次第に自由度を増していきました。昔は職業選択も自由ではなく、結婚や恋愛の相手も自由に選べるわけではありませんでした。人々は個人ではなく「家」や「村」の単位でまとめられていたのです。
もし自由な生き方が否定されたままの世の中だったら、コミュニケーションに関しては楽な面もあったかもしれません。私たちは自由意志で仕事を選ばなくとも良い。親から言われた仕事に就いたり、村ぐるみで足りないところに配置されたりしたわけです。
そのような社会では、各人が自分に割り振られた仕事のエキスパートであればよいはずです。「なぜ自分はこの仕事を選んだのか」と人に説明しなくとも済みますし、仕事の中でも限られた相手とだけ言葉を交わしていればよく、現代のように常に初対面の人と商談をしたり、人脈を広げたりする必要はありませんでした。
要するに、昔はコミュニケーションが苦手なら、そこから極力遠ざかることの出来る環境があったのです。
でも現代は……
もちろん過去の状況が幸せかどうかは個々人の生き方によるでしょうし、多くの人にとっては自由のない昔の世界は堪え難いほど生き辛いものでしょう。しかし、社会が発展するにつれて個々人の自由が拡張されていった結果、現代人の多くはこの複雑な社会を生き延びながら、自分で決めて選び取り説明するという意思決定とコミュニケーションの波に呑まれるようになりました。
現代社会は発展するにしたがって構成員にコミュニケーションを求めるようになりました。その傾向は様々な企業の採用からはっきりと読み取れます。経団連が発表した新卒採用のアンケート結果を見ると、採用を行う上で企業が最も重視する能力の筆頭に挙がるのは、「コミュニケーション能力」です。2016年に行われたアンケートによると、企業が選考に当たって最も重要視した要素の第一位は12年連続で「コミュニケーション能力」となりました。
(出典:http://www.keidanren.or.jp/policy/2016/108_gaiyo.pdf)
現代という荒波を乗り越えていくためには、重要スキルである「コミュニケーション能力」の向上が必須となります。しかし現代の学校教育のカリキュラムを見る限りにおいては、コミュニケーションの学習に十分な時間が割かれているとはお世辞にも言えません。
人は学ばないと身につかない生き物です。教育カリキュラムにコミュニケーション関連の授業が十分に含まれていない以上、それを苦手とする人が増えていくのは必然と言っても過言ではないでしょう。
学校教育とコミュニケーション
では、なぜ学校教育ではコミュニケーションの授業が軽視されるのでしょうか?
義務教育とは、世の中を渡っていく上で重要なものとして確立されてきた知識の詰め合わせパックとでも言うべきものです。もし国語の授業がなければ、あなたは正確に文章を読み解くにも大変な苦労をしていたかもしれません。
同様に四則計算ができなければ日常生活に支障をきたしますし、基本的な物理法則や生物の成り立ちが分からなければ理系の研究は全く前進しないでしょう。世界中で教育を軽視していたら、今頃わたしたちは月にさえ到達できていないかもしれません。

学校で教えなければならないカリキュラムは実を言えば不足している点も多く、そこにコミュニケーション関係の学習を加えるほどの余裕はありませんでした。先ほど述べた通り、それまでの社会はコミュニケーションをそれほど重要視するものではなかったからです。
しかし現代では少し事情が変わってきました。歴史が進むにつれて人間が自由を獲得していった結果、この複雑な社会の中で、様々な立場の人々を関わり合いながら生きていく必要性がでてきたのです。
英語を例にとってみましょう。
明治大正頃の人々は、英語を学ばなくとも特に困ることはありませんでした。来日する外国人と出会うのは珍しいことで、よほど裕福な家に生まれない限り外国へ渡ることなど考えられなかったからです。
現代では違います。駅や飲食店の看板には様々な言語で案内が書かれ、商業は内需だけでは支えられず、日本国内のみならず海外の顧客に対してもアピールしていかなければ成り立たなくなりつつあります。
その変化に現代の教育はなかなかついていけません。小学校からの英語教育の導入や総合等の時間を使ったディベートやディスカッションなどを徐々に取り入れつつありますが、それでは不足しているというのが現状なのです。
思春期とのコミュニケーションは難しい
学生を対象にコミュニケーションを教えるのが難しい理由の一つに思春期の存在があります。思春期の学生はただでさえ不安定な上に、他人とのコミュニケーションに対しても強い不安を抱えがちです。
思春期の子供が欲しいのは焦燥感を吹き払ってくれる見事な正解であって、正解に辿り着くための作法ではありません。またそのような思春期の悩みを良いものとして受け止める風潮のせいか、思春期の子供には自分で答えを出すまで悩めるようそっとしておくといった「静観論」の存在も、思春期の子供に対する教育を難しくしています。
学校教育でコミュニケーションのことをもっと教えられれば良いのですが、学校そのものが社会の変化についていけておらず、思春期の壁もあり、なかなかうまく行っていないのが現状です。
このまま放置すればまずいということは教育関係者なら分かっているのですが、教育の場の変化はゆっくりとしか進みません。各自がきちんと対策する以外に有効な手立てがないという状況が続いています。